闘魂~諦めない気持ち=氣力~
- 秀志 池上
- 2021年10月3日
- 読了時間: 50分
更新日:2021年10月7日
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初めに
先日ありがたいことにある方から自伝を書いて欲しいと言って頂けました。自伝というのは、専門書などと違い私に興味の無い人に取っては全く無価値なものであります。それを書いて欲しいと言って頂けたことは非常にありがたいことで、とても嬉しい気持ちになりました。
その一方で、自伝と言ってもどこの年代をどのように切りまとめるのか、あまり幼少期のことを書いても仕方がないし、面白いのはやはり高校を卒業して大学入学後からの人生です。個性的な人生を歩んだという意味では、やはり大学入学後です。しかしながら、どうしても避けて通ることができないのが、中学、高校の6年間です。ここがどうしても私の原点になっており、人格形成に大きな影響をおよぼしました。
人格形成と言いましても、立派な人間という意味の人格者ではなく、ひねた部分や少しニヒルな部分も含めて、この時期に形成されていったという意味です。自伝をリリースする前に高校を卒業する時に書いた卒業論文という名の文集を公開してみたいと思ったのもそんな理由からです。今の私が振り返って高校時代を書くのと、当時の私が感じたままを書くのとでは、大きな違いがあるでしょう。敢えて、当時の私のまだ生々しさが残ったお声をお届けいたします。
『闘魂』というのは洛南高校陸上競技部のOBが毎年書いていくもので、非常に分厚い冊子となっております。今回はそんな分厚い冊子から私と人気ランチューバ―ティラノこと深澤哲也の部分を抜き出しました。私は高校時代からほとんどイメージ変わっていないのですが、ティラノの方はかなり違うイメージで、あなたの知らないティラノがここにいます。
簡単に、洛南高校陸上競技部について書いておくと、洛南高校陸上競技部は中島道雄先生という一人の指導者から出発し、初めは部員が3人しかおらず一番速い子でも5000mが18分台だったそうです。そこから出発して、京都府インターハイの総合優勝はティラノの代で33連覇、現在もその記録を更新中で、インターハイも3回目の総合優勝、最近は3連覇するなど、インターハイ総合優勝さえもが当たり前になりつつあります。
全国高校駅伝は私が3年生の時に20回目の出場を果たし、今年の下馬評では大本命、留学生は3キロ区間しか使えないというルール改正もあり、今年は洛南高校陸上競技部初優勝へと期待がかかるところです。中島道雄先生はティラノの卒業とともに勇退され、その後は大阪高校へと移り、そこでもたった2年間で全国高校駅伝に出場させるという手腕を発揮されました。
文中の中島先生とは、この中島道雄先生のことであります。他に柴田先生というのがちょくちょくできてますが、これは1984年ロサンジェルスオリンピック走り幅跳び代表の柴田博之先生のことで、短距離は柴田先生が指導されていました。柴田先生も元々は中島道雄先生の教え子で、長年短距離を指導されて、現在の強い洛南高校陸上競技部を作り上げた方です。
表記につきましては、あまりにも文章が長すぎるところは適宜改行、句点の挿入を行いましたが、それ以外の箇所につきましては全て原文のママ残しております。実際の闘魂は手書きで書かれていますが、この度の出版に際しましては改めてワードで打ち直しました。あまり一般的ではない漢字も使われていますが、あえて原文のママ残してありますことをご了承ください。
それでは、あまり前置きが長くなっても良くないので、早速本文をお楽しみください!
諦めない気持ち=氣力
池上秀志
私が洛南高校に入学してから三年という年月が経ちましたが、私の三年間の全ては全国高校駅伝の為にあったと言い切って良いと思います。従って、一年一年の全国高校駅伝の結果がその年の私の全てであり、三年間の私の全てはその三回の全国高校駅伝です。チーム順位19位、11位、18位で区間順位は12位、20位、23位でした。さて、初めに結論から述べておきましょう。私は三年間で強くなるどころか逆に弱くなってしまった。それがトラックレースならば自分が困るだけで良いのですが、それが駅伝、それも長距離部員が一年間の目標にしている全国高校駅伝であったがゆえに、チームに多大な迷惑をかけてしまいました。チームメイトの皆、監督、関係者の皆様方本当に申し訳ありませんでした。失敗したと雖も三年間で通ってきた過程も結果とともにこの闘魂に書かせて頂こうと思います。
原点
私の原点は何といっても中学校の時に過ごしたボーイズリーグのチーム京都バッファローズでの三年間にあります。私はゆく所全てで指導者に恵まれましたが、ここも例外ではありませんでした。ここで私は努力することの大切さ尊さを教えて頂きました。この大切なことを私は口先だけでなく体をもって教えて頂きました。今ではここでお世話になった餅原コーチや重田コーチの「結果は関係ない。最後までやり切ることが大事なんや」「無駄な練習なんて1つもない。やったことはいつになるかわからないけど、必ず結果になる」「他人は関係ない。自分がどれだけやるかが大事なんや」というような言葉の数々が今も耳の奥にはっきりと残っているような気がします。「俺に言わせたらしんどくない練習は練習じゃない、しんどいと思ってからが練習やんけ」「しんどいと言える間はしんどくない、だってほんまにしんどかったら口きけへんから」といったような言葉の数々が私を練習へそして時にオーバーワークへと駆り立てたのかもしれません。しかし、私は京都バッファローズに入団したからこそ、今の自分があるのだと思いますし、入団していなければ、ただでさえ少ない現在の半分も努力出来なかったと思います。そして、元チームメートが高校でベンチ入りしたり、レギュラーを獲ったことがどれだけ私の心の励みになったかは分かりません。
洛南高校入学―強かった先輩方―
私が洛南高校に入学して初めて先輩方のレースを目にしたのは春季大会でした。中学校を卒業する時に神先先生から入学したらお前は下の方やから焦らずやれという主旨のことを言われていたので驚くことはありませんでしたが、改めてちょっとやそっとじゃ追いつけそうもないなと思いました。しかしこれならすぐ追いつけそうだと思った種目が一つだけありました。それが5000mでした。そうは言っても先輩方の3000mの通過のタイムですら私は走れませんでした。しかし、入学した時から何としても駅伝が走りたかった私はあきらめる訳にはいきませんでした。駅伝は5000mのタイムがもっとも考慮されるから中距離で敵わなくとも何とか勝負できそうだ、ましてや駅伝は練習次第でトラックのタイムにプラスアルファの力を加えることが出来る、そう考えた私は早速駅伝に狙いを定めて練習することにしました。
駅伝―大野先生との出会い
考えることくらいは誰でも出来ますが、問題は如何にして考えたことを現実のものとしていくかということです。私の場合は無難に駅伝を走るだけでは不十分でした。何故ならば、私の代わりはいくらでもいるどころか先輩方の代わりは私に務まらないからです。私が先輩方と同程度の実力をつけたとしても同程度の力ならインターハイ路線でも実績を残した方、或いはスピードのある方を使おうということになってしまい、私は起用されないと考えたからです。そこで私は5000mのタイムはもちろんのこと距離が長くてもペースを落とさずに走ること、アップダウンのきついコースでもペースを落とさずに走ることを目指すことにしました。ではどうすればそれが出来るかということですが、幸いにも入学式をむかえる前の篠山合宿でヒントを得ていました。その合宿では山梨学院大学のサテライトコーチをされている大野先生が基本中の基本である走り方を徹底的に教えてくださいました。勿論、すぐにマスターできる訳はなく中島先生にも何度も指導していただき私の現在のフォームは高校一年生の夏休みまでに大部分が形成されたと言っても良いと思います。勿論その後も細かい変化はあり改善点はまだまだあるので今後も変化してはいくでしょう。私の目指した走り方は上下動が少ないピッチに重点を置いた走り方でした。
走ることは水平方向への移動である為上にはねることは力のロスでありストライドに頼った走り方は距離が長くなると落ち率が大きくなってしまう可能性が高いからです。後半苦しくなってきてもピッチを落とさなければある程度はペースの低下を防ぐことが出来ると思います。私の現在の駅伝に関する考え方は大野先生に教えて頂いたことが土台となっています。しかしこの走り方も大野先生に教えて頂いたこともありますが洛南高校の中でのレギュラー争いに勝ち抜く為の他者との相対関係の中から生まれたと言って良いと思います。私が入学した時の洛南高校は中距離のレベルは高く近畿インターハイ1500mチャンピオンの廣瀬さんを筆頭にバネを利かした惚れ惚れとするような大きなストライドの方が多かったのです。しかし憧れていては到底勝つことは出来ませんので、それならば俺は先輩方には出来ないことで勝負しようと思ったからです。そしてフォームに密接な関係があるのがペース配分です。何故ペース配分とフォームに関係があるのか不思議に思う人も多いと思いますが、多くの場合オーバーペースになってしまうと前半と後半でフォームが変わってしまうことが多いように思います。特にスピード型の選手は前半大きなストライドで走り後半筋力が持たなくなると別人のようなフォームになってしまうというケースが多いように思います。これに関して筋力不足が原因なのだから筋力を鍛えることが先でペース配分は関係ないという意見もあるでしょうが、自分の力を出し切るには自分の筋力或いは、大雑把に自分の実力範囲内で走ればフォームを崩すことなく効率良く走ることが出来結果的に自分の最善の走りが出来るようになると私は考えています。尤も京都府駅伝を走ろうと思えば10月迄には使える目途がたってないといけないので、それまでに大きなストライドで長距離区間を走り切るだけの力をつける自信がなかったということもあります。しかし今ではどれだけ力をつけようが駅伝では少しおさえ気味に入り後半余裕があればビルドアップしていくという走り方が基本であると思いますしフォームにしてもピッチに重点をおいたリラックスした走り方を目指していこうと思います。
また快調走に関しては1500mのレースペースぐらいで走っている方が多かったのですが大野先生は「明日これで10000m走る、というつもりで走れ。但しラスト一本だけはラストスパートの練習してもええ」と指導して下さいました。ですので私はほとんど速いペースでの練習はせず徹底して1km3分ペースを体に覚えさせるようにしました。それもどちらかといえば3分00秒から3分05秒までのスピードを体に覚え込ませました。それは大野先生が余裕を持って走りだして、いけると思ったらもう少しストライドを広げれば良いと指導して下さったからです。初めの1kmを落ち着いては入れるように練習しさえすればあとは調子が良ければ自然とストライドが伸びるだろうと考えていました。確か高校一年生の時の京都府駅伝と全国高校駅伝の前日刺激で1km3分を超えるペースで走っていたのは私だけだったと記憶しています。以上のように考えた結果自ずから私の目指す方向は定まり練習もそこへ向かっていたものになりました。
夏合宿-レギュラー争いに向けて
トラックシーズン最後のレースを3000m9分17秒という惨憺たる結果で終えた私は夏合宿で力をつけ何とか9月にはチームの中で15番手ぐらいにつけておきたいと考えていました。この時はチームの層が大変厚かったので15番手ぐらいにいれば7番手までは10月に入れば追い上げられると考えていたからです。何はともあれせめて先輩方と同じ練習がこなせるようになりたい、でも現実は厳しいなあと思っている矢先にちょっとした事件がありました。鉢伏一次合宿か二次合宿かは忘れましたが大阪経済大学の監督をしておられる鶴谷先生のミーティングの時です。三年生の三日月さんがあてられた時、三日月さんの少し前にいる奴は誰かと聞かれ私の5000mのベストタイムは三日月さんより4秒速かったので挙手しました。しかしベストタイムはそうであってもトラックシーズンの三日月さんの3000m障害のタイムと私の3000mのタイムはほとんど変わらなかったのですから、三日月さんには既にこの時点で腹立たしく思われてたに違いありません。更に三日月さんは鶴谷先生に「三日月、お前こいつより努力してるか」と聞かれ「はい、してます」更に私も「お前三日月より努力してるか」と聞かれて「自分の方がしてます」私は言った瞬間に頭が熱くなり、しまった大変なことを言ってしまったという思いといやレギュラー争いを勝ち抜くにはこれぐらい言えなければ駄目だという気持ちが同時に涌きあがりました。そしてそのミーティングが終わるとやっぱり三日月さんに「お前なんであんなこと言ったん?お前が俺に勝てるわけないやんけ」と言われました。私は返す言葉も勝てる根拠も自信もまったくありませんでした。でも駅伝を走ることだけは絶対に諦められないのだから先ずは練習で追いつこう、そして絶対10月迄には7番手以内にいよう、毎日心の中でそんなことを重いながら先輩方を見上げてばかりいました。
由良合宿―横山先生との出会い
私は何と言っても由良合宿でやれるかもしれないという手応えを感じました。そして練習に思う存分打ち込めるこの合宿が楽しくて仕方がありませんでした。その時の私は楽しくて仕方がなかったので自分ではなんとも思いませんでしたが、三年生になった時にどうしてあの時の自分はあの環境であれだけの練習がこなせたのだろうと不思議に思いました。少し練習すればすぐに痛みが出る今とは比べものにならないくらい回復力がありましたし、まともに足がつけないくらい痛くてもこの時は走っているうちに痛みが消えました。そして、走りながらでもすぐに治せました。勿論合宿中ですので治療に行っていないのにも関わらずです。さて、この合宿では二日目には元由良育英高校の横山隆義先生がミーティングで話をして下さいました。横山先生は初めに私を指さすなりこうおっしゃいました。「お前日本一になれるぞ」そして続けて「いやー私なんかと思うだろ?なれる、絶対なれる。やってやれないことはない、やらずに出来るはずがない。俺がやらなあ誰がやる、今やらんといつ出来る」とこうおっしゃいました。
私はこの話を聞いて心の底から感動しました。体中にやる気が漲るのがわかりました。そしてこの日の練習で雨の降る中300mトラックを107周走りました。走り終わるとグランドには誰も残っていなくて照明も消されていました。苦しくもあったけれど心の中は充実感で満たされていました。そして以後この日のことを思い出す度に俺はもっと頑張れる、やってやれないことはないと思えるようになりました。この合宿でのもう一つの思い出は合宿最終日の1500m走のあとの1000mのタイムトライアルで三年生の横田さんが気づくと自分の目の前を走っておられました。雲の上の人がいきなり地上に降りてきたようでとても驚きましたがこの機会を逃したらもう二度と勝てないかもしれないと思い直し無我夢中で逃げました、そして逃げ切ることが出来ました。まぐれであることはわかっていても最高に嬉しかったのを覚えています。
京都ジュニアー絶対諦めるな、油断するな
レースは絶対諦めてはいけないし、油断してもいけない、そう痛感したのが高校一年の京都ジュニアでした。レースは久御山高校の南雲さん、二年生の小山さん、そして私の三つ巴の戦いとなり勝負は最後の直線までもつまれました。私はそれまでの展開から小山さんには勝てそうだが南雲さんが怖い、ラスト200mでスパートされたらどうなるかわからないけど、先に動いた方が僅かの差でゴール前で失速しそうだから、相手が動くまで待とうと思いました。しかし動きの無いまま小山さん、私、南雲さんの順で4850mを通過、ここまできたら先行逃げ切りだが絶対的なスパートも誰もかけられないから南雲さんがスパートする一呼吸前にスパートしようと思い、よし今だっと思う僅か前に南雲さんがスパートしました。しまったと思いましたがあとは気力の勝負です。ラスト30mで順位が入れ替わり南雲さん、私、小山さんの順でゴールしました。小山さんは余力が残っていたけれど私たちのスパートに気づくのが遅れて慌ててスパートしようとしたけれど間に合わなかったようです。そして、京都府駅伝は私が7区で小山さんは補欠でした。真相は定かではありませんが、この試合の0.2秒が決め手になったのではないかと思います。それが真であれ偽であれ、何時のまさかも手を抜いてはいけない真剣勝負でなければいけないんだと学びました。
三年間で最も沈んだ時期
人間だれしも浮き沈みがあるものですが、私にとって高校二年の9月、10月が三年間の底でした。私はこのシーズンを3000m9分37秒からスタートし、トラックシーズンは5000m15分37秒で終えました。それでも駅伝だけは絶対走りたい、夏合宿で走りこめば必ず走れるようになれるはずだと思っていました。しかし9月の記録会で16分32秒というワースト記録を出すと10月の京都ジュニアでは15分32秒というとんでもないタイムを出してしまいました。その6日後のきたろうカップ駅伝で私は1区を予定されていました。この時ばかりは逃げ出したくもなりました。練習すればする程タイムは悪くなり、自分がやってる練習なんて意味をもたないのだろうかと思うと目の前の練習が馬鹿らしく思えました。しかし一方でそうは言っても諦めたくない投げ出したくもない、目の前のことに誠実に取り組むしか方法はないじゃないかと思いました。そして、ここで手を抜いてほどほどに練習したら今までやってきた練習がもったいないとも思いました。京都ジュニアの翌日の朝練習で残されたチャンスは一回しかないのだからきたろうカップ駅伝に集中しようと思いつつもストレッチをしていると悔しくて涙が出てきそうになるのを堪えていました。しかし朝練習で走り出すと不思議と体が軽く300mで44秒台が出ました。平凡なタイムではありますがいつもは46秒台しか出ない私にとっては明らかに好調を示すタイムでした。そしてこの日を境に私の調子は好転しきたろうカップ駅伝では1区10kmを走って30分39秒、6日前に走っていた倍の距離をその時よりも速いペースで走れたのだから不思議と言えば不思議なことです。この時私は絶対諦めてはいけないし今までやってきたことが無駄になることもないのだと強く感じました。この時の経験があるから大抵の状況では諦めるには早すぎるなと思えるようになりました。
最も上手くいったレース
私はレース前にある程度レース展開を読んでその中で自分の力を出し切るように考えます。しかしレースは読み通り動く訳はありませんので、その都度判断をして決断していくようにしています。しかし中にはほぼ読み通りレースが進み思い通りにならないことまで自分にプラスに働くようなこともあります。私にとっては高校一年の十二月六日の記録会がそうでした。レースは普通一番を目指すものですが、この記録会は全国駅伝の選考となっていたので一番になるよりも確実に五番以内に入ることが大切でした。何故五番以内かというと1500mでインターハイに出場した廣瀬さんと横田さん、近畿駅伝二区区間三位の児子さん、五区区間記録を更新した森本さんがおられましたのでこの四名の方が僅差で自分より後ろにいて私が六番手、七番手だと私が外される可能性が高いと考えたからです。そしてあわよくば長距離区間を走りたかった私は天野さんと文元さん以外に勝てば良いと考えました。この二人の先輩は実績があったので私が一回ぐらい勝っても評価の対象にならないからです。ということで私は確実に五番以内を維持しながら三番以内を目指すことになりました。このレースには報徳学園の妹尾さん、滋賀学園の小沢さんがエントリーしていたのでインターハイでレースを見ていた私は入りの1kmは2分45秒から2分49秒で行くだろうと思いましたので、私は2分55秒で洛南高校の中で12番手から15番手にいれば良いと思いました。そして3000mを過ぎたら7番手まで上がってラスト1200mでロングスパートをかけようと思っていました。実際のレースでは先頭の1000mの通過は2分46秒で予想通りでしたが、私が予定通り2分55秒で入ると1組36人の中で最後尾になってしまいました。
この時私は「ラッキー!これで三番以内は確実だな」と思いました。元々それほど力の差がないのだから自分のペースを守った者が勝つと思ったからです。ラスト1200mで予定通りに近い八番手で前を見ると三番まで射程圏内、文元さんと天野さんはちょっと厳しいなとおもっていましたが、それもある程度予想していたので予定通りと言えば予定通りで私は満を持してスパートをかけました。ラスト300mで小山さんを抜き去ると二番目でゴール、知らない間に文元さんも抜いていました。このレースが結局三年間のベストタイムとなりましたが、ベストタイムを出した時がもっとも強いとは言えないので、そのことにはあまり価値を感じませんがあまりにも上手く言ったレースとして心に強く残りました。
1500m
私が人生で初めて1500mを走ったのは高校三年の四月でした。私はこのままでは800mも1500mも走ることなく終わってしまうと思ったので自分から許可をいただき、亀岡の記録会に出場しました。1500mは4分14秒、800mは2分08秒でした。これで二度と走らせてもらえることは無いだろうと思っていましたが、思いがけず市内インターハイで使ってもらえることになりました。詳しいことは知りませんが、予定していた一年生が駄目になってその代役だったと聞いています。私は4分07秒で走れれば良いなくらいの気持ちでしたが、3周目で先頭を奪うとそのままゴールまで無我夢中で逃げました。最後の直線でかわされたことすら気づかないくらい自分の走りを出し切ることに集中していました。僅差で2位でしたが、タイムは4分01秒で大幅ベスト更新となりました。この種目をして思ったことはスタミナを養えば走れるということです。スピードがあるにこしたことはありませんが、スピードが無いからと言って諦めることもないと思います。余力さえあればラストスパートは必ずかかります。但し圧倒的にスピードに差がある場合は速い展開に持ち込むことを薦めますが、ラストスパートとスピードにはあまり関係が無いというのが実感です。ですので練習もそれ程1500mを意識する必要は無いと思います。
練習、休養、栄養
強くなるには練習、休養、栄養のバランスが大切であることは誰もが知っていますが、なかなかその適切なバランスを見つけられないのではないでしょうか。この3つの中で最も大きな変数は練習だと思います。中島先生にはこの三年間やり過ぎは良くないぞと何度言われたかわかりませんが、それでもついついやり過ぎてしまいました。やり過ぎだとは思わないうちに気づいたら脚に痛みが出たり疲労で脚が動かなかったりということが何度もありました。そもそも走れるけれど脚が痛いということはよくあるので、どこで線を引けば良いか分からないうちに翌朝になるとまともに歩けないというケースが何度かありました。私はこの三年間常にこれが最善だと信じてきたので、故障してしまったことも時に練習をやり過ぎてしまったことも後悔していません。でも後輩の皆には同じ悔しさも故障して走れない時の悶々とした気持ちも味わってほしく何ので早め早めに少し脚が痛いですと言ってほしいと思います。一回の練習で得られる効果はほとんどありませんので、今なら三日で治せるという段階で走るのをやめて下さい。たとえ我慢したら走れる程度であっもです。走って状態を悪化させるよりも早めに休んで現状維持する方がまだましに思えます。
故障期間中の練習
故障しているからといって気落ちしている暇などありません。故障も鍛え方によってはプラスになるでしょう。故障の具合にもよりますが私が一番おすすめする練習は歩くことです。理由は走る動きに最も近く自分の体重を支えるからです。心拍数が上がらないので効果が無いようにも思えるかもしれませんが、水泳やバイクは心拍数を上げることが出来ても自分の体重を支えないので、筋力が落ちてしまいます。また水泳では泳ぎが上手くないと心拍数を上げられませんし、バイクで心拍数を上げても走りとはまったく違う動きになるのでそれほどの効果は期待できません。また歩くことにはフォームを固めるという効果もあります。誰しも速い動きよりも遅い動き、苦しい時よりも余裕のある時の方が自分の動きを把握できるでしょう。
夢に向かって
私の高校三年間は第62回全国高校駅伝で無念さとともに終わりました。前述したように私の三年間は夢かなうことなく都大路は会稽山となって終わりました。しかし、それは高校三年間という一つの区切りがついたにすぎずまた新たな挑戦が始まっていきます。高校入学時に日本一になりたいと思っていたのと同じ気持ちでこれからも決してあきらめることなく倦まず弛まず努力し、夢を努力で現実にしていきたいと思います。出来れば四十歳まで現役でやれれば良いなと思います。
夢を努力で現実にー神先先生との出会い
高校生活のことではありませんが、神先先生についても書かせていただこうと思います。神先先生は私が中学校二年の時に教頭先生として亀岡中学校に来られました。神先先生は常に言葉が真っ直ぐでした。駄目なものは駄目だとはっきり言われました。お前にはまだ早いとかまだ無理やとかもっと現実を見なあかん等よく言われました。しかしその次には大抵、だから今はこうしようとか先ずはこれをやれということをおっしゃいました。一般的には現実を見ろという言葉には否定的な意味が含まれていますが、神先先生はそうではありませんでした。きっと現実の積み重ねが夢へと繋がっているからだと思います。都道府県対抗男子駅伝が終わった後ポツリと「お前、これで努力すれば夢が叶うということがわかったやろ?」とおっしゃったことがずっと心の中に残っています。敢えて終わりの方に中学校の時を書いたのは努力すれば夢は叶う、夢は努力で現実になるということを未来に繋げていきたいと思うからです。そしてそのことを教えて下さった神先先生には心の底から感謝しています。
勉強
陸上競技から離れて勉強のことを書くのはいささか不自然ではありますが、高校生活の大部分を占めているので、この闘魂にも書かせていただきます。私は高校に入学した時、基礎的な学力も勉強する習慣もなく、古典の初めの小テストは50点満点の3点、英語Aは27点で評定2、英語Bは19点で評定1という有様でした。それでも最後は文系の中でトップになることが出来ました。飛躍的に学力が向上することは有りえません。基本は反復です。先ず目の前のことに集中して取り組んで下さい。授業中に寝て考査前にまとめて四時間、五時間勉強するよりも授業で寝ずに集中して受けて考査前に勉強しない方がよほど良いと思います。但し授業中寝ないというのは当たり前なのでどれだけ授業でやったことを復習するかが大切だと思いますが。
最後に
中島先生、柴田先生、弱い私も強い選手と同じく温かに、そして熱意を持って指導して下さり、ありがとうございました。お世話になった治療院の先生方ありがとうございました。藤井先生、各教科担当の先生方ありがとうございました。お父さん、お母さんありがとうございました。私を育てて下さった先輩方、三年間支えあったチームメイト、一緒に練習して走ってくれた後輩達ありがとうございました。私が今までお世話になった書ききれないほど多くの全ての方へ本当にありがとうございました。そして、今後とも宜しくお願いいたします。
後記
最後の全国高校駅伝が終わり、17歳の私の胸にこだましたのは「風せうせうとして都路寒し」という一つの句でした。これは史記に出てくる「風せうせうとして易水寒し。壮士ひとたび去りて復(また)とは還らず」という一句から自然と浮かんだ一つの句です。この句は簡単に言えば、意気盛んなもう二度とは生還出来ないことを知っている殺し屋を見送るときに、冷たく吹き付ける風とその場にいた見送りの者たちの気持ちを重ね合わせた文章です。
その時の私も北山から吹きつける冷えおろしという京都独特の季節風の中で、その句が自然と浮かんだのですが、その時の私の気持ちは「任務を終えて生きて還れないとはなんと羨ましいことか」ということでした。全国高校駅伝というのは、西京極陸上競技場で招集を受けてその後、同じ区間を走る選手全員で各スタート地点へと移動し、走り終わったらまた点呼を受けて全員でバスに乗って西京極陸上競技場へと戻ります。各チームの3区を走った選手たちが呉越同舟でほとんど言葉を交わさないままに競技場へと戻ります。ラジオから流れてくる中継を聴きながら、チームメートの力走を信じながらも、私が担当した3区終了時点で入賞圏内からは1分以上遅れていました。私も素人ではありません。その差が意味することをもちろん知っています。私は責任の重さに身体が震え、バスの中で失敗しても再び還らなくて済む2000年以上も前の殺し屋を羨ましく思っていました。
西京極陸上競技場に戻ると、私は初めて声をかけて下さる中島先生の顔がまともに見れず、言葉も発することが出来ませんでした。せっかく取材に来てくださった京都新聞の方にも「自分のせいで迷惑かけました」とだけ言うと、目も合わせずにそのまま歩き去っていきました。申し訳なかったですけど、その時の私にはそれ以上何も言えませんでした。一言でも、言葉を発すると堰を切ったダムのように感情が流れ出すことは分かっていました。本当に体が震えて何も話せませんでした。
洛南高校を卒業して私も今や27歳、若干の時の流れを感じますが、全体のトーンとして当時の自分も今の自分も基本的には変わらないなと改めて感じました。人によっては、過ぎ去った青春の1ページとして懐かしみながらこの闘魂を読むものだと思います。しかし、私にとっては完全に当時の自分と今の自分は一続きに存在しており、改めて読んでみても考え方のほとんどは変わっていません。ある意味では成長していないのかもしれないとも思いました。
そんな中で、二つアップデートしておく箇所があります。一つ目は、1500mに関するものです。本文中にもあるように、1500mではスピードよりも持久力、この考え方は今でも変わりませんし、寧ろ当時以上にそう思います。何故かというと、400mや十種競技で活躍する選手がいかに1500mを走れないかというのをその後さらに知ることになったからです。日本トップクラスの400mの選手でもそれ用の練習をしておかないと、1500mになるとガクンとペースダウンしてしまうからです。
それを踏まえた上でではありますが、1500mを専門にやるなら、週に一回か二週間に一回はスプリントトレーニングを導入することをお勧めします。またレースが近づいてきたら、800mや1000m、1200mのタイムトライアルも導入しておくと、更に状態を上げていくことが出来ます。
二つ目の故障中の練習に関してですが、その後の経験から私はバイクも非常に有効なトレーニングになることが分かりました。但し、ロードバイクやPower Maxでは駄目です。ある程度性能の良いエアロバイクが必要になります。ジムに通うことが必須になるでしょう。性能の良いと言っても、そこらへんで売っているような家庭用のエアロバイクでは駄目だという意味で、50万円前後のものなら大体大丈夫です。という訳で、家に一台置いても良いのですが、ジムに通う方が現実的になるでしょう。
私の方は以上です。引き続きティラノの闘魂もお楽しみください。
考える、学ぶ、そして走る
深澤哲也
思えば3年前の3月、ド緊張の中洛南高校の練習に参加させて頂いた日がまるで昨日のように感じます。私が洛南へきて学んだ事は本当に沢山あります。それと同時に、私はこの3年間、数多くの失敗をし、色んな悩みもかかえ、時には洛南へ来たことの意味や自分はどうしたのかが見出せなくなる時もありました。しかし、今日を迎えるまでこうして続けてこられたのは、両親や先生、仲間の支えがあったからであります。さて、この闘魂では、私はこれまで学んだ事や失敗、成功体験をまとめていきたいと思います。
◎始まり
私が陸上を始めたきっかけは一つ。ズバリ私が小学生の頃、母が放った一言です。京都市の小学校は大文字駅伝という大きな駅伝の大会があったのですが、私の小学校でもそれに向けた練習が秋から始まりました。メンバーは参加したい人が参加できるということで、母に何となくその話をすると、母は「行ってみたら?走れるん違う?細いし」ということを言いました。多分、全く期待してなかったでしょうし、適当に言った一言だったと思います。私自身、駅伝への気持ちはいい加減なもので、テレビにうつりたいから走る、という感じでした。そして、初めて参加した練習で私は一番速く、予選会でもよく走れました。本戦では小学生なのに都大路を走ってテレビにうつれ、「駅伝って楽しい」と思い、もっと走りたいと強く思いました。
◎二足のわらじ
私は中学校でも陸上がしたいと望んでいましたが、残念ながら私の中学校に陸上部はありませんでした。ですので、私は小学校からやっていたサッカーをすることにしました。そして、陸上は週末のみ活動しているクラブチームに入り、試合には出ていました。しかし、この二足のわらじは難しかなかったです。平日はサッカーの練習に行って週末は陸上の試合に出場します。すると当然、サッカーの試合はいけない訳です。すごく申し訳なかったですが、先生や友達はすごく理解があってそんな中でも受け入れてくれました。そのお陰で、私は中学でも陸上を少しずつでも続けれました。そして、中3の4月、私は陸上クラブと色々問題が発生し、クラブを去りました。路頭に迷った私に、運命の出会いが待っていました。佐々木英雄先生との出会いです。私はとにかく全国大会へ行きたかったので、佐々木先生に教えを請いました。佐々木先生の元には、800mの竹中もいたので、お互い刺激し合い、力を付けていけました。そして迎えた京都府大会。竹中は全国を決めました。私も、4月からの3か月でそれだけのことはしてきていましたので、絶対行けると信じて1500mを走りました。全てを出せましたが結果は虚しく1.7秒届きませんでした。翌日は放心状態でした。私はこの時初めて心から悔しいとおもいました。本気で悔しい、と思うには、それだけのことをしていないと思えないんだなということをこの時同時に学びました。
◎黙走、、、そして進路の決断
夏からは、平日は私一人でメニューをこなす日々になりました。インターバルやレぺなどもほとんど1人でやりました。黙々と走りこみましたが苦は感じませんでした。夏の悔しい思いを秋に3000mで8分台を出すことで晴らそうと思っていたからでしょうか。この頃の私はタフだったなと今でも思います。そんな中でも親が仕事の合間を縫ってタイムを計ってくれたり、週末皆とトレーニング出来るのは心の支えでした。秋口から、私は調子が良くなってきて駅伝でも好走することができました。が、しかし、肝心の3000mではまたもあと少しの所で目標の8分台に届かずに終わりました。また、その時期から進路の決断の時が迫ってまいりました。元々はある公立高校を考えていましたが、中島先生と2度お話しさせて頂き、一瞬で気持ちは洛南に傾き、固まりました。理由はただ一つ。「都大路を走りたい」元々、洛南への憧れはありましたが、私のレベルでは場違いだと思い、洛南へ行きたいなど恥ずかしくて言えませんでしたが、心のどこかにしまってあったその想いが中島先生とお話しし、爆発したのだと思います。私が洛南に行けたのは、佐々木先生のご指導や、毎日のように父がマッサージをしてくれたりと、家族のサポートのお陰でありました。
☆中学ベストタイム
800m 2分06秒12
1500m 4分12秒29
3000m 9分04秒78
◎未知の世界へー
私は、基本的に洛南での1年目は調子よく走れました。周りの者は中学校からの先輩など、知っている人がいる者もいましたが、私は全くの道への挑戦でした。入った時、先輩方は皆、私が中学生の頃憧れていた人たちばかりで、特に私の中では池上さんがスターのような存在でしたので、目標にしました。結局、池上さんには最後まで追い付けませんでしたが、卒業されるまで多くのことを吸収しました。
◎1年目の勢い。挑戦。
ルーキーというのは、先輩よりも勢いに乗りやすいものです。ルーキーの怖いところは、勢いに乗れば怖いものなしでいけるため、手が付けられなくなるところです。私は、1年目、憧れの先輩相手でも自分が劣っているなどと全く思わず、上手く勢いに乗れました。失敗など恐れず、本当にのびのびと走れたと思います。何よりも私はこの年、挑戦することの大切さを学びました。6月の男鹿駅伝の選考メニューで3000m×2本というメニューがあったのですが、設定は9分15秒、9分00秒というもので、当時私は3000mベストは9分00秒29だったものですから、先輩方からは「1年は誰もつけんやろ」と言われました。私はそんなことはやってみないと分からないと思っていたのと、その言葉を受けて見返してやると思ったことで果敢に食らいつきました。すると2本ともつくことが出来、メンバー入りすることができました。私はこの時自分に対し自信が出てきました。そのまま突入した夏合宿では、全てのメニューをこなせた上、故障することもなく時にはプラスアルファを行えました。先輩方の話では、1年にとって夏合宿は試練と言われていましたが、私はこの夏、充実したトレーニングが出来たいたことで楽しくて仕方ありませんでしたし、そのような状態で迎えた京都ユースでは2種目で近畿大会行きを決めることができました。こうして充実した状態で、駅伝シーズンに突入することができました。
◎駅伝へー先輩への挑戦
9月に私は、近畿ユースへ出場しました。中学時代、近畿大会で入賞したので、今度は優勝したいと思っていましたが、脱水症状で惨敗しました。中島先生からは「こんな田舎の試合で緊張したんか。弱いんや。しっかりせんか!」と言われ、ふっ切れましたが体はボロボロでした。夏合宿にプラスなどで追い込んだ疲労がここ来て出ていて、上手く走れない日が1か月近く続きました。10月のレースは全て出させて頂きましたが、どれも結果が出せずに京都府駅伝はメンバー落ちしました。先輩方が2位に3分以上差を空ける大勝を飾りましたが、走りたかった私は悔しい気持ちしかありませんでした。しかし、ただ悔しがっているだけでは何も変わりませんので、メンバーの方々に色々話を聞いて自分には何が足りないのかを追求した結果、ピーキングをしっかりする必要があると気づき、次週の記録会に備えました。そのレースでは先輩を1人でも多く倒すつもりで走り、チーム内11番目のタイムが出ました。あと1人は抜かないとメンバー落ちすると思ったので、6区を走った近畿駅伝では区間賞を狙って走りましたが上手く走れませんでした。この時にああ、都大路は夢に終わったかと思いましたが、次の週のポイント練習の日に5000m野タイムトライアルをして決めるということで、チャンスがやって来ました。全身全霊で臨み、15分04秒で10人目に入ることができました。その時、プレーイングマネージャーをされていた松延さんが外れ、本当に悔しいはずなのに翌日からいつも通り明るく練習されていたのを見て、「これは7人に入らなければ」と思いました。しかし実際は、心のどこかに10人には入れたことで、満足している自分がいました。ここで述べたいことは、メンバー入りを目指すにあたって、10人を目指すのではなく7人のみを目指してやることには違いありませんが、走れない点に於いてはメンバー落ちに変わりないのです。常に上を見てやることの大切さを、私はこの時に学びました。そして都大路を当事者として実際に見て、来年は絶対走っていると自分を信じ頑張る決意をしました。
◎故障―自分と向き合う
人生は、本当に一時の判断ミスで狂うと言っても過言では無いでしょう。私の場合、1年の終わりに参加した九州合宿こそが、今後を変えてしまいました。九州の強い環境の中でやれば必ず強くなると思ってシンスプリントを我慢して2週間走り抜きました。それが私の高校陸上を台無しにするとも知らずに、、、。
☆高一ベストタイム
1500m 4分09秒60
3000m 9分00秒29
5000m 15分07秒43
◎空白の一年間
私にとって高2の1年間は、まさにそれと言えるでしょう。九州合宿の痛みの原因は、まさかの疲労骨折で3か月も走れませんでした。故障というものは、してしまった後の対処が非常に重要です。私はこの期間で強くなろうと意気込んでウェイトトレーニングをやたらとやりました。結果、私は体操部のような体になってしまい、復帰してから全く走れませんでした。故障した時は是非ウォークをやるべきだと今は思うのですが、この時は筋力をつける事ばかり考えていました。そしてそのだらしない体のまま夏合宿に入りました。
◎意識と動きのくい違い
夏合宿。高1の頃は全てこなせましたがこの年は全てこなせませんでした。正直、高1の合宿よりも辛かったです。体が、私の思う通りに動きませんでした。鉢伏でちぎれ倒しての臨んだ京都ユースの5000mは16分49秒かかりました。私は、そんなタイムを出す日が来るとは思いませんでした。先生に何て言えば良いのかわかりませんでしたが、中島先生はいつも通りアドバイスを下さいました。調子の良し悪しに関わらず何ら変わらぬ様子でコメントを下さる先生に、このとき本当に救われ、また1から頑張ろうと思えました。しかし思いとは裏腹に、日本海駅伝、京都ジュニアともうどうしようもない結果に終わりました。日本海駅伝の時は、帰りの車で色々あって、これまで溜まっていた何かが爆発したような感じで、母にあたり散らしてしまいました。京都ジュニアの時はまた16分かかり、みんながお疲れと言ってくれるのに返事もせず、ただひたすらうつむいていました。しかしこの翌日のフリーで、良い言い方をすればふっ切れ、悪い言い方をすればもうどうでもいいと感じになり、気持ちが切り替わりました。ともかく私はこのふっ切れによって何故か調子が好転し、きたろうカップでは区間賞を取る事ができました。この区間賞によってまた調子が上がり、京都府駅伝の10人に滑り込むことができました。その後も絶好調で、私は6区を希望していましたが7人からは外れ、走ることはできませんでした。1年前の都大路の時は、10人に入ったことで嬉しかったですが、この時は悔しさしかなく認めたくありませんでした。チームは優勝してくれましてが、悔しさだけが残りました。しかし、私にもすぐチャンスはやって来ました。大阪での記録会に参加することになりました。調子も良いし、14分40秒台は出ると思っていたのですが、オーバーペースで散り15分31秒でした。しかし、近畿があるとすぐ切り替えましたが、4区8.0875kmという距離の中で私は撃沈してしまいました。これで都大路へのチャンスは翌週の記録会のみとなってしまい、私は本当に焦っていました。1年の時にメンバー入りして今年外れる、ましてや1年生や元々勝っていた3年生の人、そして同学年の乾に枠を取られることは、私の中で許されることではありませんでした。そして走り出し、3000mまでは良いペースで走れていたのですが、体が動かず15分29秒でゴールへ飛び込みました。当然メンバーからは外れ私の中で音を立てて崩れました。この年の都大路は、応援するのも辛かったです。2年目は本当に、自分で何をしていたのか分からない、空白の1年間でした。
☆高2ベストタイム
1500m 4分08秒37
5000m 15分29秒48
◎高校生活のどん底
高2の京都府駅伝が終わった時、洛南は来年マズイと言われていました。この年のチームは、7人中5人3年生で構成されていて、他校は1,2年生が中心だったからです。そんな中、私は皆に主将を選んでもらいました。中島先生も最後の年ですし、何が何でも都大路に。そう思ってチーム作りに対する意欲は燃えていました。しかし、いかんせん私は調子が悪かったので、チームのことを見ているつもりでも実際は全く見えておらず、情けないことですが自分のことで手一杯になっていました。そんな毎日が続き私はどんどん不調になり、年明けの枚方ハーフマラソンの10kmでは37分近くかかってしまいました。
そんな中、自分と乾がキャプテンを交代することになりました。恐らく理由は、今から思えばそのような状態の私を見かねた中島先生の私に対するご配慮だったのだろうと思いますが、そのころの私はこの出来事によってより深刻になってしまいました。
そして直後の中国山口駅伝で、私は一か月走れなくなる故障をしました。キャプテンを外れた、不調など、嫌なことが沢山一気に押し寄せてきて、その時の私は完全にやる気を失い、気持ちが折れてしまいました。本当に、何故洛南に来たのか自問自答し、周りの人すべてが敵に見えてしまい、挙句の果てには練習することがばからしく思えていました。しかし私は、何故か「辞めたい」とだけは思いませんでした。ここで辞めたら勿体ない問い気持ちがあったのでしょうか。毎日就寝前に体幹補強をすることだけは続けていました。しかし依然として故障は治らず、「こんなことして何になるんだ」という思いと「治ったら必ず走れるし頑張ろう」という2つの思いが私の中で葛藤していました。
春の合宿では、皆が否駅伝や九州合宿に行っている中、私は学校でろくにメニューをこなせず情けない気持ちでした。この頃は毎日朝が来るのが怖かったです。そして、結局大したトレーニングも積めず、最後のトレックシーズンを迎えました。
◎不調の先に、、、。
私はこの年、1500mでインターハイ路線に挑戦しようとしていました。しかし、それは自信の無さ故の「逃げ」だったと思います。本当は5000mをやりたいけれど、練習もできていないし、1500mで狙おうという甘い考えでした。この考え方は本当にダメだったとすごく思います。その自信の無さがレースに出て、4月、5月、は全てのレースでひどい結果になっていました。
私の最初で最後のインターハイは、1500mで挑みました。私より調子の良いものは沢山いましたが、中島先生からチャンスを頂きました。調子は依然として良くありませんでしたが、選ばれた責任をまずは確実に近畿に進むことで果たしていこうと意気込んでいました。しかし結果は虚しく予選落ち。決勝にも残れない弱い自分に絶望しました。京都IHの総合連覇もとても危うく、大会中はずっと自責の念に駆られ、胃が痛かったのを覚えています。短距離陣の活躍に助けられ、申し訳ない気持ちばかりでした。
私のインターハイ路線は、チームの足を引っ張っただけに終わりました。この時私の中で、何かを変えなければならないと本気で危機感を覚え、翌日から駅伝に向け上手く気持ちを切り替えられました。それは体の動きにも表れ、今までこなせていなかった練習ができるようになり、やがてこなせない練習がなくなってきました。この時から私は、何か一つ武器をつけたいと思いポイント練習の後に必ず1000mを1本、時計を見ずに3分の感覚で行うようにしました。そして迎えた男鹿駅伝では、とても良い感覚で走れ、復調を感じました。
私のやっていたこの1000mは、単にプラスアルファという意味ではなく、駅伝での初めの1kmの感覚を身につけるためのものです。私は秋以降、入りの1kmでペースを絶対間違えなくなりました。これは、不調で苦しんだ先につかんだ私の一つの武器だと思います。
◎合宿―駅伝に向け、最後の充電
この年の夏合宿は、私はある流れを決めて取り組みました。まず鉢伏一次合宿では、プラスアルファよりかは脚作りという意味で1km4分ペース通り走って、じっくりと体を作りました。ここで下地を作り2次合宿で距離を上乗せしてスタミナをつける。そして由良合宿でスタミナを養成しつつスピード持久を鍛え、最後の比婆合宿でまとめるというものでした。そして私は、そう考えた通りに実行できました。故障もなく、追い込めたので充実した夏でした。
合宿というものは、つなげていかなければ意味がありません。ただ単に走っても皆も走りこんでますし、人より強くなれません。だからといって無茶をすると体を壊してしまいます。体の強さも人それぞれですしので同じ合宿をしていても、この合宿の目的は何かとそれぞれが考えなければ、ある人は見になってある人は無駄にしてしまったりします。特に、上級生に上がるほど自分の考えをもってやらなければ力は付かないでしょう。
◎そして、ラスト駅伝へ―
過去2年間、夏合宿後は内臓疲労に苦しめられてきた私ですが、今年は工夫して取り組んだため、9月から体はそこそこ動きました。そして私は、京都府駅伝2区のタイムトライアルで日本海駅伝のメンバーの座を勝ちとり、日本海駅伝も2区を走らせて頂けました。タイムは良くありませんでしたが、私の中では大分駅伝が上手くなってきたような感覚がつかめました。
その後10月は、週を追うごとに調子を少しずつ上げていけました。エコパの記録会はタイムこそ出なかったものの、調子の上がりを確認できました。そして、4区を走ったきたろうカップ駅伝では、これまでで1番に近い走りができました。入りの1kmから上手くリズムに乗れ、そのままビルドアップする形で走れました。この時に私は、夏前から考えて取り組んだことが成果として出てきているのを実感することができました。
◎全国への挑戦
11月11日。降りしきる雨の中、都大路をかけた京都府駅伝が行われました。この大会を勝たなければ全国に行けないので、このレースで3年間全てをぶつけるという気持ちで5区を走りました。3kmの中で、私の力は全て出せたと思います。しかし、結果は4秒差の2位。都大路に出られないという現実を、私はすぐに理解しました。帰りの輸送バスの中では、涙が止まりませんでした。何のために3年間やってきたのだろうと、何とも言えない喪失感が襲ってきました。本気でこのチームで都大路入賞がしたかったので、目標が一気に消え去りました。そして、集合の時の中島先生の涙と、全陸上部員、OB、保護者の方々の顔を見て私は、走った者として本当に申し訳ない思いでした。また同時に、一緒に戦った全部員への感謝の気持ちが溢れました。
◎次なる目標
京都府駅伝に敗れ、目標がなくなった私はモチベーションが上がりませんでした。早く切り替えるべきなのは分かっていましたが気持ちの整理がつかないまま1回目の記録会に出場しました。調子は相当良かったのですが15分06秒と、一応ベストですが自分的にはかなりショックでした。そして、このレースで江口が14分台を出したこともあり、この日は中々悔しかったです。同時に、いつまでも落ち込んでいる場合ではないと悟り、次の記録会へ目標ができました。
近畿駅伝は、皆でもう一度リベンジとして臨み、入賞を果たせました。しかし、私の個人的な気持ちとしては、自分が走ったときに負け、走っていない時に勝ったのは複雑でした。もっと力が欲しいと、純粋に思いました。
そして、最後の記録会。これに向けて前回からやれることを全てやり、万全の準備をしましたが、正直調子は良くありませんでした。しかし、これが本当に14分台のラストチャンスだと
思うと、粘ることができました。もう悔しい思いをしたくない。そんな気持ちで走り抜け、14分台を出すことができました。本当に、気持ちの大切さを実感しました。
都大路は、テレビの前での観戦でした。本当に悔しさがこみあげてきて、テレビを眺める自分が情けなく思えました。駅伝は、見るものではなく走るものです。この舞台こそが高校長距離界の集大成なんだと思い、都大路が本当に近くて遠いものだと実感しました。
☆高三ベストタイム
1500m 4分07秒03
5000m 14分57秒25
◎締めくくり
私は、IHと駅伝それぞれに思いがあり、トラックはトラック、駅伝は駅伝と分けて考えていましたが、いざ終わってみると結局は全て駅伝のためにやっていたんだと実感します。だからこそ都大路を走れなかったのは本当に悔しいですし、何か一つ大きな穴が空いたような感じではあります。しかし、それに向けてチームで1つになってやってきた過程で、多くの失敗を繰り返し、そしてそうするうちに経験を生かす力が付いてきたと思います。人から聞いたことは、比較的忘れやすいですが、自分で気づいたことは忘れません。それはかけがえのないものですので、一生大切にしていきたいです。
これからも私は、多くの失敗をするでしょう。もしかすると、また高2のようなどん底を味わうかもしれません。しかし、そうなったとき、どうすれば良いかを私は身に付けました。そういった意味では、結局私はこの3年間してきたことは無駄ではないですし、それに対しての後悔はありません。
最後に、中島先生、柴田先生、3年間ご指導頂きありがとうございました。家族の皆、ありがとうございました。共に過ごした仲間や後輩、そして支えて下さったすべての方ありがとうございました。共に過ごした仲間や後輩、そして支えて下さった全ての方ありがとございました。支えられていることに感謝し、いつまでも自分を高めるため、私はします。日々精進。
そして、いつまでも学び、考える。それをモットーに。
完
後記
齢18の私がこの闘魂を書き上げてから、早9年。27歳になった今読み返すと、その未熟さに一人赤面してしまいます。私たちの恩師である中島道雄先生は常々「感謝の気持ちを忘れるな」とおっしゃっていましたが、当時の私はそれを本当の意味で全く分かっていなかったなあ…と、この文章を読んでいて感じるものです。タイムマシンがあれば、今すぐに高校1年生の3月に戻り、当時の自分にコブラツイストをお見舞いしたいと心より思います。
とはいえ、今思い返してみても洛南高校での3年間の大半は本当に悔しい思い出で構成されていると感じますし、特に高校3年時の京都府高校駅伝の敗北と、高校2年時の怪我という二つの出来事に関しては、未だに思い返すと胸がきゅっと締まる感覚があります。それくらい、当時のことは鮮明に記憶していて、更に言うと当時の悔しい経験が今の私の原動力になっていることは間違いありません。
自分の人生を振り返って、高校時代の出来事ほど「こうしておけば」ということがどんどん思い浮かんでくることはありません。今更何を考えてもどうしようもないのに、私の中ではいつまで経っても高校時代のこの二つの出来事はどうやっても「思い出」になってくれないのです。それはなぜか。当時の私は頑張っているつもりではありましたが、正直今から思えば努力の基準値が非常に低く、またその方向性も間違っていたので、中途半端な頑張りしかできていなかったなという思いが自分の中にあるからです。
ただ、ここまで強烈な悔しさが残っているからこそ、今の私があると思います。あれから何年たってもこれだけ当時の悔しさが残っているのなら、今中途半端な取り組みをしてしまえば、それが数年後の自分を後悔させることを直感でわかるからこそ、どんな困難でも対して苦にならないのです。これは、もうあんな思いはしたくないというところからきている感情であり、決して前向きなものではないかもしれませんが、私にとって非常に大きなパワーとなっています。そして、私はこの経験があってよかったと心から思えていますし、今後もこの思いを糧に何があっても乗り越えられるであろうと感じています。
最後に、私の闘魂の中でも記載の通り、弊社代表の池上は、私にとって高校時代から憧れの対象でした。むしろ高校時代は今よりもっと彼に対して文字通り憧れの気持ちが強く、こうなりたいと思う対象でした。つまり、意識的に彼の真似をしている部分も多々あったのです。
実は、私の文章の書き方なんかは池上の文章から影響を受けています。皆さんも感じられたことと思いますが、池上の文章って高校時代から全く変わらないでしょう?私も10年振りくらいに池上の闘魂を読みましたけれど、今の池上が書いたのかなと普通に勘違いしてしまいました。逆に言えば、高校時代から池上秀志はすでに池上秀志たる振る舞いで、彼そのものだったのです。よく、昔は丸かっただとか、高校時代から大人になって再開した時に「大人になったなあ~」なんて感慨にふけることがあると思いますが、正直池上に関しては全くありません。それは池上が成長していないという意味ではなく(仮にそうであってもそんな失礼なことは絶対に言えませんが)、当時から池上は真っすぐな性格で、相手があの中島先生でも、洛南の恐ろしい先輩方でも、違うと思ったことは曲げない強い芯を持った男だったということです。私は、良くも悪くも影響されやすい男です。モノマネがバカほどうまい(多分本気出せば芸人やれる)という利点はありますが、逆に言えば芯がないと見られがちなところが悩みでした。その点、池上の芯の強さは筋金入りで、高校時代からそんな池上に強くあこがれていました。
さらに言うと、今の池上はこれでも十分かなり丸くなっていると思います。私は中学時代から彼を知っていますが、当時の彼の第一印象は、まさに走るために生まれてきたマシンでした。そして、丸坊主になぜかいつも読売ジャイアンツの野球帽を被って陸上の試合に来ていて、やたらと声は大きいし、もう800%根性論の人やと思ったものです。しかし、洛南高校に入学して、池上と話をすると、それはもうびっくりするほどの理論家で、陸上の話をしていたらいつの間にか冷戦時代の東側諸国の軍のなんとか…みたいな話になるし、その知識量に圧倒されたことをよく覚えています。速くなるために、練習はもちろん、知識の吸収なども徹底的に努力をする池上の姿に衝撃を受けたものです。
それから10年ほどたった今、池上はどうなったか。もはやランニングの理論に関して博士と呼べる域に達しています。でもこれは彼の高校時代を知る私からすれば何ら不思議なことではありません。彼の知識欲、努力量を考えれば、今このようにウェルビーイング株式会社という会社を立ち上げ、この世にまだ存在しないランニングスクールを生み出したのは、必然の結果だと思います。そんな池上を、十分に生かしていける存在になれたらいいな、というのが、今の私のささやかな願いであり、目標なのです。それが、一万人のランナーさんの目標達成をサポートすることに必ずつながるものと信じて。
池上秀志から見た高校時代のティラノ
深澤哲也こと本名ティラノが洛南高校陸上競技部に入学してきた時の最初の印象は「膝下のさばきが綺麗だな」ということでした。佐久長聖高校出身の上野裕一郎さんや佐藤悠基さんを彷彿させるようなきれいなキックをしており、有望なスピード型ランナーとして洛南高校陸上競技部へと入学してきました。
ただ、闘魂にも書かせて頂いた通り、ティラノが入学してきたとき、私は全く走れておらず、後輩の面倒を見る余裕もなければ、引き上げてあげようという気持ちも全くなく、敵の一人としてしか認知していませんでした。そんなティラノを私が何故連れまわすことになったのか、いつから連れまわすことになったのかは正直全く記憶にありません。
ただ、私がいつもティラノと一緒にいることになった理由は明白で、陸上競技の話が出来る数少ない部員の一人だったからです。強豪校の選手、或いは実業団選手であったとしてもいつもいつも陸上競技の話をしている訳ではありません。むしろ、大きく分けると二つのタイプに分かれ、一つ目のタイプは普段は陸上競技に苦しい思いをして向き合っているから、それ以外は陸上競技のことは忘れたいというタイプ、二つ目のタイプはずっと陸上競技のことを考えていたい、ずっと陸上競技と繋がっていたいというタイプです。私とティラノは完全に後者のタイプでした。
私も高校を卒業してしばらくは、「高校時代は後輩連れまわして、陸上談議につき合わせて、うるさい先輩になってしまっていたな」とプチ反省をした時期もありましたが、あれから約十年たって、それを二人で仕事にまでしてしまったので、ここまでくれば十年かけて一人の女性を口説き落としたようなものです。一本気と言って差し支えは無いでしょう。
私も三年生になるころには、少し余裕が出来てきて、自分がメンバーから落とされるという不安からは解放されていました。そんな時は、心の底から深澤を応援し、一緒に駅伝を走ろうと声をかけていたものです。闘魂の文中にもある帰りの車の中で母にあたり散らしてしまった日本海駅伝では、私が4区、ティラノが5区でタスキリレーもしました。一年前の自分が味わっていた真っ暗闇の中に彼がいることを私は敏感に感じていましたが、当時の私にはどうしてあげることも出来ませんでした。ただただ、自分自身の経験から「どこで調子が上向くか分からんから、絶対に投げ出したらあかん」とだけしか言えませんでした。
ちなみにですが、当時からトークはキレッキレに冴えわたっていました。本人も言うとおり、本気で目指せば芸人になれるのではないでしょうか?一度由良合宿で徳島県の強豪美馬商業と同部屋になった時に、その時私たちは一つの教室に布団を敷いて寝泊まりしていたのですが、まだ言葉を交わしたこともない昼寝をしていた美馬商業の選手達を一人を除いて残り全員を得意のエロ漫談で大爆笑させて、全員で一緒に写真を撮るところまでもっていかせた実績の持ち主です。
また、発想も当時からよく分からないところがあり、お尻をスキャンするとか言って、お尻の割れ目に手刀をスキャンするということもよくやっていました。そして、ある日上下関係が絶対の洛南高校陸上競技部内において、誤って一つ上の競歩で二年連続インターハイ入賞した先輩のお尻をスキャンするという大事件も起こしてしまったのですが、正直やってる意味が分かりませんでした。
私達が卒業する時には、エアロ・スミスになりきってI don’t want to miss a thingを熱唱してくれたりと現在もYouTubeで発揮している才能をいかんなく発揮していた高校時代でした。現在はこの高校時代は活かしどころが分からなかった意味不明な才能の方ばかりが知られているのですが、実はかなり真面目で問題には真正面から向き合い、考え込んでしまうタイプです。
悪口ではなく、誉め言葉として書かせて頂くのですが、高校時代のティラノは自分の可能性の半分も出せていなかったと思います。ただ、当時の私にはどうしてあげることも出来ませんでした。走り方も練習もどれをとっても自分に合ったものが見つけられなかった、そう感じています。
自分自身に関してはどうでしょうか?評価は難しいところです。元々そこまでの能力はなかったのかもしれません。でも、やはりもっとイケたはずだし、少なくとも今の私が当時の私を指導すれば、最低でもインターハイには出場させてあげられるし、全国高校駅伝でももっと走らせてあげられたと思います。
そんな想いが今の仕事の原点になっていると思っています。見ていて、話を聞いていてもったいないと思うことは多々あります。これは何も見下す気持ちから出ているのではありません。お仕事を抱えて、家族を抱えて、中には小さなお子さんを抱えて頭が下がる様な努力をされている、でも、それが100%生かし切れていないと感じることは多々あります。そう、ちょうど当時の私たちのように今はそんな方々の手助けが少しでもさせて頂ければと思う毎日です。
2021年10月3日金木犀の香り漂う澄み切った秋の早朝に
ウェルビーイング株式会社代表取締役
池上秀志
























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